演劇を見よう!シェイクスピアは教養じゃない。

劇場とは不思議なもので、小さなホールへ入った瞬間、それまでの現実世界を離れて、非日常世界へと迷い込んだような不思議な高揚感を味わうことができます。

ただ、「演劇」とか今回のマクベスのように「シェイクスピア」と聞くと「なんとなく知ってはいるけどハードルが高い」「なんかよく分かんないけど高尚で自分とはあまり縁のないもの」と思ってしまってはいないでしょうか?

僕もシェイクスピアを見に行ったと言うと「すごいね」とか「ハイソだね」みたいなことを言われたりしますが、そんなことは全然ありません。

今日のマクベスも、イギリス古典の作品でありながら、現代日本で親しまれている国民的アニメの主題歌や大人気アーティストの楽曲、昨年流行したあの映画の登場人物などを取り入れた演出も行われていて、観ていてとても面白かったです。

その意味では演劇って「落語」にとても似ているところがあって、歌舞伎が江戸時代に庶民の娯楽として芽生え花開いたように、演劇も単なる娯楽にすぎません。見に行ったからといってすごくもなければえらくもない。昨年亡くなられた演出家の蜷川幸雄さんも「シェイクスピア演劇は教養ではなく大衆娯楽だ」と述べています。

また、同じ劇場でも映画館と一線を画しているところは演劇の場合その瞬間にしか存在しないものというのがあって、俳優さんの放つエネルギーや表情、時に座席の目の前を役者さんが通り過ぎ、観客すらも作品の一部に巻き込んでいくという臨場感は3D映画でも決して味わえません。

僕自身、以前は「演劇?へーそんなのがあるんだ」くらいに思っていましたが、一度この非日常な感覚を味わってしまってからは、たまにですがこうして劇場へと足を運んでしまいます。

内容についてはストーリーを知らない人のお楽しみを奪ってしまってはいけないので触れないようにしたいと思いますが、今日の公演を見ていて面白いと思ったことが2つあります。

1つは

・存在しているのは記号だけでそれに意味を与えているのは私たちだ

ということです。

今日の公演では、広間であろうがコンビニエンスストアであろうがそこで晩餐会が行なわれていると思えばそれは賑やかな饗宴の場に見えるし、パイプ椅子であろうが、練乳であろうが、一度それを短剣だと思うと本当にそれが短剣であるかのように見えました。

裸の王様と少し似ているところがあるかもしれませんが、「王様が裸である」という目の前の事実も「王様は立派な服を着ている」という意味を与えていればそれは本当に「王様が立派な服を着ている」のとなんら変わりません。

同じように、私たちが当たり前のものと思っている現実世界も、世界はただそこにあるがままであるというのに、私たちがそこに勝手な意味を与えてしまうから振り回されてしまうのだと言うことできるのではないでしょうか。

もう1つは、

・想像によって存在しないものを見てしまうと、目の前の現実はもちろん、想像による他の可能性すら無くなってしまうことがある

ということです。

(これはパンフレットにも書いてあるので書きますが)「マクベスは、王になる男だ」という魔女のことばによって、マクベスは本来の自分が見えなくなってしまい、悲しい運命を辿ることになってしまいます。

1度「魔女の予言は正しい」というモノの見方ができあがってしまったマクベスは、本当はそうならない可能性だってあるかもしれないのに、それ以外の視点からモノを見ることが非常に難しくなってしまいます。

私たちも良くも悪くも1つのモノの見方にとらわれてしまうことで、目の前の現実や別の選択肢を見ることができず、さらには考えればたどり着くことのできるはずだった「第3の選択肢」を失ってしまうことがあります。

これを一緒に見に行った友人は星座のようだと言っていました。

「夜空に星が散らばっているその一片にオリオンを見ることが出来るくらい人間は自由なのに、一度その見方を知ってしまうと、もうそれを壊してまで違う星座を見たり星1つ1つを星として見たり出来なくなってしまうくらい人間は不自由だな」と。

私たちはいつも「知らないことによる不自由さ」にばかり目を向けてしまいがちだけど、「知ることによる不自由さ」というのもあるんだなあと感じました。

 ここまで、僕が今日の舞台を見て思ったことを書きましたが、あくまでもこれは僕の見方です。

作品1つ見てもそこから感じることは人によって様々で、そこには何が正解で何が間違っているということはきっとなくて、

・人ぞれぞれの楽しみ方を追求できる

というのも演劇の魅力の1つなんだと思います。

そして一度演劇を見てしまったら、それを見たことのない日常にはもう戻れません。

もう劇場が作る「非日常」という名のオリオンを知らない自分にはなれないんだなあ。